予定の時間よりも早く慰霊の旅が終了したので、運転手さんのご配慮により首里城へ向かうことにしました。
始めに首里城についての前に、沖縄戦と首里城についてみて行きましょう。
首里城を『正の遺産』とすれば、司令部壕は『負の遺産』。
1944年3月に編成された第32軍は、沖縄本島首里に司令部を置き首里城の地下に大規模な地下壕が掘られました。
首里城公園の地下には約1000mの巨大な人口壕が眠っています。沖縄守備軍の最高指揮官、牛島中将はじめ約1000人の軍人軍属達が南部移動までの2か月間いた戦闘指令所です。
牛島満第三十二軍司令官(左)、長勇参謀長(中)、八原博通高級参謀(右)
32軍司令部壕は3ヶ所に造られました。現在の嘉手納弾薬庫の山側。南風原町津嘉山。最終的には地盤の固い首里城地下壕が軍司令壕に選ばれたそうです。
嘉手納弾薬庫内の壕は現在米軍が使用しているらしい。
津嘉山壕は32軍所属部隊が使用しており、経理部壕としても知られており、沖縄陸軍病院の分院としても使用されました。
戦後は一部公開されたこともありましたが、壕はほとんど落盤などで現存していないそうな。
首里司令壕は出入り口が5ヶ所あったが、現在開いている壕口は第五抗口一箇所のみとのこと。
遺構は守礼門の近くにあるそうだが、案内看板は皆無。
首里城は平日でも人が沢山いるが、この第三十二軍司令部地下壕跡には、めったに人は来ない。
目立たない場所にあることもそうだが、これ自体知っている人はあまりいない。
これらは壕の入り口ではなく、トーチカの一部
なお、内部は壁が崩れるなど危険なため、公開されていません。
壕の中は今もわき水が流れ、日々浸食が進んでいて岩盤が大きく崩落しているところもあります。沖縄県は、司令部壕の保存や公開を検討していますが、数十億円の費用がかかるとみられ、計画は今も進んでいません。
◎シュガーローフの戦い
5月12日から18日にかけて行われた首里防衛線の戦いのひとつ。
守備隊の独立混成第44旅団配下の部隊と、進撃してきたアメリカ第6海兵師団とが激戦を繰り広げた。
シュガーローフ(安里52高地)は、現在は那覇市水道局の管理する安里配水池公園になっております。
日本軍は、シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンとアメリカ軍が呼んだ3つの丘からなる連携した巧みな防御陣地を構築し、アメリカ海兵隊を撃退しつづけ、シュガーローフの丘は戦闘が行われた1週間で11回も持ち主を変えた。この戦いで海兵隊側は2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘疲労患者を出したとされる。
日本側の損害については、この戦闘に限った統計がないため明らかではない。
米軍のバックナー司令官は、進撃のスピードが遅いとの各所からの批判に晒されていた。このため、沖縄北部戦線を予定よりも早く完了した第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団を南部戦線に投入し西側から防衛線を突破する計画を立てた。
一方で日本軍は、既に消耗していた第62師団の後方で首里防衛線の最西翼の安里地区に、知念半島で第2の米軍の上陸作戦に備えていた独立混成第44旅団を北上させて配置した。日本軍は、この場所を突破されると那覇市街を米軍に掌握され、さらに首里司令部の裏側に回りこまれて、包囲される恐れが出てきたため、予備兵力と残った砲兵力を惜しげもなくつぎ込む体制を整えていた。
一帯は首里高地の日本軍砲兵隊から見通しが効いたため、常に激しい砲撃に晒された。攻撃側のアメリカ軍は、遮蔽物のない中を突撃しこれらの丘に攻撃を加えるしか方法はなく、被害が増大していった。
米軍は地下壕や洞穴陣地の守備軍に対し一つの奇策を実行した。守備軍の各地下壕の上部に夜陰にまぎれて練達の狙撃兵を送り込み、壕の入り口付近に陣取らせて壕内から姿を現す将兵を片っ端から狙い撃ちにしたのである。そして守備軍を壕内に封じこめたところで、戦車を地下陣地の入り口に誘導し、壕内に向かって猛然と火焔放射を浴びせかけたり、強力な爆雷やガス弾を大量に投入したりした。「馬乗り作戦」と呼ばれるこの奇襲戦法によって、難攻不落と思われていた守備軍のトーチカや洞穴陣地は次々に無力化され、その中で多くの将兵が戦うことなく犠牲になっていった。
あまりにも激烈な戦闘のため、米軍第六海兵師団は2662人もの死傷者と1289人もの戦闘疲労症患者、すなわち発狂者を出す結果となった。これらの精神異常者を治療するため、米軍は特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかったという。
首里攻防戦の前に、神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団めがけて猛然と決死の体当たり攻撃を敢行した。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが、一部の特攻機は米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与え、やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、他の特攻機がそのエンタープライズをも大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移された。
さて、この辺で話を首里城に戻しましょう。
◎首里城
琉球建築の最高傑作といわれる首里城は、1400年頃三山時代と呼ばれ3つの大きな勢力が争っていたものを平定・統一(1429)し、沖縄の英雄として語り継がれる尚巴志王によって後に続く琉球王国の国王の居城とされた。
現在の首里城は、約50年にわたる琉球王国時代に3度消失。1925年に正殿は国宝とされたが沖縄戦で再度消失。アメリカからの日本本土復帰20年後の1992年に復元されたものです。
首里城は那覇市を見渡せる弁ヶ岳(167.5m)に位置しており、周辺は国と県による整備によって「首里城公園」となっています。首里杜館(すいむいかん)と呼ばれる公園のレストセンター(駐車場が併設される)から守礼門をくぐると巨大な城郭が目に飛込んでくる。琉球石灰岩と呼ばれる沖縄独特の石材で造られ、総延長1,080mにもおよぶ城壁から受ける印象は、日本各地にある城とは全く異なったものである。
沖縄地方では城のことを「グスク」と呼び、沖縄本島と周辺離島だけでも合わせると200を越える数のグスク跡が存在するといわれ、首里城をはじめこれらの中から歴史上また学問上重要な価値をもつ代表的なものが選ばれて世界遺産となっています。
ちなみに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたのは「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではありません。
見学コースの中に、床にガラス張りのところがあります。そこを覗くと世界遺産に登録された石垣が見えます。
◎守礼門
本土の城郭でいう首里城の大手門に値する門。
柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いてあります。
沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となりました。
首里城正殿は琉球王国最大の木造建築であり、その装飾は圧巻!
随所に配置される龍は国王の象徴とされ、大龍柱(だいりゅうちゅう)と呼ばれる一対の見事な石柱や屋根上の棟飾り、唐破風など33体が施されてある。屋根の赤瓦は沖縄独特のものであるが、柱や壁の朱の彩色は中国文化の影響を強く受けているものと想像するに容易である。
内部(残念ながら撮影禁止)の壁・天井・柱も朱の彩色となっており、なかでも御差床(うさすか)と呼ばれる国王が座る王座の装飾(復元)は必見ですね。
首里城は本土の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けています。
門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には琉球瓦(赤瓦)が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられてます。
やはり城だけに坂や階段が多く、杖を頼りに歩くには少々しんどい。
それでもせっかく来たのだからと、運転手さんのガイドに耳を傾けながら頑張る
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2時間程度で見学終了。曇りがちな空で助かりました。
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やったらもっとバテたでしょうね
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この後ホテルまで送ってもらい、運転手さんともお別れ。
今日一日ありがとうございました。お疲れ様でした~
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