ガダルカナル島(以下“餓島”)は、日本から南へ約6千キロ。
昭和17年7月6日に、海軍がここに飛行設営隊約600名を上陸させました。
連合国軍は、同島飛行場がほぼ完成するのを待って、
昭和17年8月7日、10,900名の海兵隊員を上陸させます。
ミッドウェイ海戦で海軍が惨敗してから2カ月後のことです。
ミッドウェイ攻略部隊として準備していた一木支隊約2,300名を餓島に上陸させ、
攻撃に転じたが21日米軍の反撃を受け、ほぼ壊滅してしまいます。
これより餓島奪回作戦は泥沼化し、陸海軍ともに消耗していきます。
大本営は幾度となく増援部隊を上陸させたが、その都度マラリア・赤痢等が蔓延し、
輸送船もその大半が沈められたため、とたんに食糧難に陥り、
昭和18年2月に撤収作戦が行われた時には、戦死4千余名、餓死・病死1万5千余名という
惨憺たる結果に終わってしまいます。
これより日本軍は長く苦しい守勢へと転換していくんですね。
戦後厚生省(当時)主導の遺骨収集事業は、昭和27年度からはじまりますが、
餓島における遺骨収集の資料が手元にないので、
いつ頃から始まり、何度行われたのかはわかりませんが、
今月9日から現地で遺骨収集を行った民間団体、
「ガダルカナル島未送還遺骨情報収集活動自主派遣隊」
が収容した39柱を含む計137柱が、
同島ホニアラ港に寄港した海上自衛隊に、19日引き渡されました。
寄港したのは、
海自幹部候補生学校を卒業した初級幹部らを対象にした遠洋練習航海艦隊。
練習艦「かしま」「せとゆき」、護衛艦「あさぎり」の3艦。
TV-3508 かしま
TV-3518 せとゆき
DD-151 あさぎり
同部隊は、5月22日日本を出港。
今月ホニアラに寄港後、19日に政府関係者や在留邦人ら約300人が出席した引き渡し式を挙行。
海自儀仗隊に栄誉礼で迎えられた後、
厚生労働省の派遣団と自主派遣隊のメンバーから海自側に引き渡されました。
同部隊は今後も練習航海を続け、
10月24日に東京・晴海ふ頭に到着します。
餓島に旭日旗を掲げた日本艦艇が寄港したのは、
昭和18年2月7日のケ号作戦(同島撤退作戦)最終日以降初めて。
◎ケ号作戦
昭和18年2月1日から7日にかけて行われた、餓島撤退作戦。
作戦は3回に分けて行われ、
海軍832名、陸軍12,198名、合計1万名以上の兵員を収容した。
損害は駆逐艦「巻雲」1隻沈没、3隻の損傷のみ。
巻雲は、ガダルカナル島撤退作戦に第一次隊として参加。
2月1日、収容地点付近まで到着するも、米海軍は日本海軍の動向を察知し機雷を設置して待ち構えていた。
「巻雲」は艦尾に触雷し、航行不能となってしまった。
2月1日、収容地点付近まで到着するも、米海軍は日本海軍の動向を察知し機雷を設置して待ち構えていた。
「巻雲」は艦尾に触雷し、航行不能となってしまった。
「夕雲」が横抱きの形でしばらく曳航するも、浸水は激しくついに曳航困難となる。
艦長以下全乗員を「夕雲」に移乗ののち雷撃処分となり、「夕雲」の介錯で沈んでいった。
艦長以下全乗員を「夕雲」に移乗ののち雷撃処分となり、「夕雲」の介錯で沈んでいった。
また、政府主導の『遺骨収集事業』で、
海自の艦艇が遺骨を日本に帰国させる任務も今回が初めて。
餓島に眠る英霊たちは、
「友軍が来た
」と

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