摩文仁の丘を後にし、次に向かったのは『梯梧之塔』。
「梯梧学徒隊」は昭和高等女学校の生徒で構成され、
県立首里高等女学校の生徒の「瑞泉学徒隊」とともに3月23日、
第六十二師団の野戦病院(南風原町新川の壕)に配置されました。
南部へ撤退後、伊原と米須の二ヶ所の壕に入り、
しかし6月19日には両学徒隊に解散命令が出されます。
昭和女学校の学徒らは解散命令後米須の壕を出、激しい砲撃の中で9名の学徒が死亡。
昭和高等女学校からは4年生17名が動員され、そのうち9名が戦死しました。
学徒隊以外には教師4名、生徒49名、計62名が戦死しています。
梯梧之塔はひめゆりの塔の東隣にありますが、ここを訪れる観光客は一人もいません。
近くにはずゐせんの塔もありますが、ここもしかり。
歩いて行ける距離なのに・・・・。
彼女たちの想像を絶するご苦労は、ひめゆり学徒隊のそれと何ら変わらないのに・・・・・![]()

※ずゐせんの塔
沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊4年生33名、職員15名、同窓生54名、
計102名が合祀されています。
ここでも
し、御神水を捧げすぐ横のひめゆりの塔に行ってみます。

そこは修学旅行生をはじめ、多くの団体客がひっきりなしに訪れています。
首里高女・昭和高女の女学生さんたちがあまりに不憫に思えてなりません![]()

ひめゆりの塔は、当時の第三外科壕の上に立つ。
沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名が、
南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍したのち、
軍とともに南部伊原・山城周辺に撤退。
この第三外科壕は19日朝米軍の攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡。
ひめゆり学徒隊は終戦までに240名中、生徒123名、職員13名が戦死してしまった。
ひめゆりの塔は、上記画像のことで第三外科壕入口の右横にあります。
奥の大きいのは慰霊碑(納骨堂)。
これを塔と勘違いしてる人も多いとか・・・・![]()

残念ながら時間が押してしまい、『ひめゆり平和祈念資料館』の見学は断念しました。
次に行く『伊原第一外科壕』、ここも訪れる人はいません。
そこかしこに雑草が生い茂っています。
この壕は陸軍病院が南部撤退後、糸数分室・津嘉山経理部・第一外科の勤務者が避難した壕。
6月17日壕口付近に砲弾が落ち、病院関係者とひめゆり学徒たちが死傷しています。
彼女たちは何を想い、何を感じながらこのような暗い壕の中で息を引き取っていったんでしょうか。
彼女たちに何もしてあげれない私は、胸が痛んでなりませんでした。
この時刻にもなると、御一行は暑さと疲労で口数も少なく、ただ黙って私の説明を聞いているだけでした。
カモフラージュされた日本軍のトーチカ
次回は本日最後の訪問地、『喜屋武岬』と『荒崎海岸』です。