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Channel: 第弐章 「悠久の大義」
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元禄15年12月14日、ザ・蔵さんズが吉良さんちに討ち入っちゃうゾ!ワクワク、ドキドキ!!の巻

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『忠臣蔵』のストーリーは皆さんもご存知の通り。
 
播州赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家旗本・吉良上野介に対し江戸城殿中において刃傷に及ぶが失敗。
 
殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩はお取りつぶし。
 
浅野家臣の大石内蔵助以下赤穂浪士四十七士が、翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)の
 
深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を討った事件。
 
 
 
 
松之廊下は皇居東御苑内に位置し、現在は所在を示す碑が建てられているだけ。
 
 
 
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本所松坂町にあった吉良邸は、現在墨田区両国3丁目となり、本所松坂町公園として整備されています。
 
公園と言っても、普通の児童公園とは違い、遊具はなくてお稲荷さんや井戸、桜の木などがあるだけ。
 
 
 
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今日はここでも地域主催の義士祭が行われてたようです。
 
 
四十七士は上野介を討ち取った後、内匠頭が眠る高輪泉岳寺の墓前にその首を捧げ報告。
 
幕府の切腹の沙汰を受け全員自害の後、浅野家の墓所の隣に祀られることとなりました。
 
 
 
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浅野内匠頭の墓所(上)と、隣接する義士の墓所(下)。屋根がついてるのが大石内蔵助の墓
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こちらは赤穂市の花岳寺にある『義士墓所』
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一方上野介はどうなったのかと言うと、
 
首は義士たちが泉岳寺を後にする時、
 
「吉良家に送り返すように」と寺に預けられたそうです。
 
吉良家に同寺院僧侶が運び、
 
その後現在の中野区上高田にある
 
萬昌院功運寺に葬られました。
 
 
 
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ここには吉良邸で討死した家来38人の碑『吉良邸討死忠臣墓誌』もあります。
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上野介はどうも内匠頭以外にもパワハラを行ってたみたいで、結構あちこちから疎まれてたようですね。
 
また、上野介と内蔵助は遠縁だそうですよ
 
 
 
討ち入り後、吉良家は改易、当主の左兵衛は信濃諏訪藩へおあずけ。
 
21歳で死去。
 
討ち入り義士の身内(男子)は遠島。
 
 
しかし綱吉が死去後、六代将軍家宣の代になり恩赦により遺子たちは赦免。
 
内匠頭の弟浅野大学も赦免され、500石の旗本に。
 
内蔵助の三男大三郎は、浅野本家の仲立ちで広島藩に仕官。1500石を賜る。
 
 
 
一方、討ち入りに参加しなかった赤穂の旧臣、討ち入りに参加したけど途中で脱盟したもの、
 
討ち入り当日吉良邸にいながら当主を守れなかった吉良側のもの、
 
そして吉良邸に増援を送らなかった上杉家には後年にわたり、
 
嘲笑等の冷遇が付きまといました。
 
 
 
 
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ちなみにこの討ち入り装束は、討ち入り45年後の『仮名手本忠臣蔵』から
 
発展した画による創作であり、実際には火事場装束で出陣したようです。
 
多人数で夜中に街中を走行してると、もし誰かに見られたら絶対怪しまれるけど、
 
火事場装束なら疑問を持たれることがないから。
 
これも蔵さんの知恵なのでしょうか???
 
 
 
 
 
 
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