忠臣蔵のお話はここでしなくても国民的な
義史なので省略しますね。
ではお話の中に出て来る難しい専門用語って何なんやろ![]()
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てな訳で、ちょこっと調べてみました。
浅野長矩(以下内匠頭)が幕府から
『勅使饗応役』を命ぜらた時から
事態は急変していくのですが、
ではその「勅使」って何なん?
「饗応役」って何なん?
勅使は、天皇の代理として命令を伝達する役職の事。
江戸幕府では、将軍が交代する時に
新しく就任した将軍に
征夷大将軍の任命を与えたり、
その他、勅令の伝達を主としていました。
元禄の世にあっては、
天皇は東山天皇。
幕府は5代将軍徳川綱吉。
関ヶ原の戦いから100年が経ち、
元禄の世は平和と安定期を迎え、
公武は良好な関係を保っていました。
幕府は正月の恒例行事に
高家を代理として京に派遣し
年賀の御挨拶をし、
その答礼として
2月下旬から3月半ばにかけて
勅使と院使を江戸へ派遣するのが
恒例行事となっていました。
その勅使や院使が江戸に下向した時の
接待役・世話係が「饗応役」なんですね。
大体、小~中堅の外様大名が
任命されていました。
その理由の一つとして、
外様大名の財力を削ぐこと。
参勤交代同様、饗応役の任は莫大な費用を要します。
外様大名の財政力を弱体させ、
謀反を起こす力を蓄えさせないことにありました。
吉良義央(以下上野介)の身分である「高家」とは、
老中の配下で、幕府における儀式や典礼を司る役職。
饗応役は交代制なので、担当した大名に作法等を指南します。
高家から各種の指導を受ける謝礼として
各大名は高家に相応の謝礼をするのが
暗黙の了解として認められていたところへ
妙に堅物で短気の内匠頭が饗応役として
やって来たから、当然謝礼などもほんの寸志。
これだけやないやろけど、上野介なんかは
「なんや、こいつ !?」と思ったのかもね。
諸大名同様、右へならえ!してたら
松の廊下事件は起こらんかったかも。
「キジも鳴かずば撃たれまいに」やね。
内匠頭が学んだと言う山鹿流兵法とは?
内匠頭に教えたのは山鹿素行と言う人物。
儒学者であり、独自の実戦兵法理論を持つ。
朱子学に批判的で、幕府に目をつけられ
赤穂藩預かりになったことから内匠頭との
接点が生まれています。
また内匠頭は防災に力を入れていたことにより
本所の火消し大名に任命され、
浅野家は防災スペシャリストの功名を上げています。
忠臣蔵のドラマや映画で、
討ち入りの際に着用した
各自の氏名を明記した法被は
これら一連の騒動をもとに描かれた、
人形浄瑠璃・歌舞伎の
『仮名手本忠臣蔵』内での創作です。
浅野家が火消し大名だったこともあって
討ち入りの際の服装は「火事装束」で
火災の際に出動する作業着みたいなもので
討入っています。
討入った時刻は夜明け前ですが
万が一誰かに見られた場合、
夜中に徒党を組んで江戸の町を移動すれば
必ずと言っていいほど怪しまれますが、
火事装束ならば、集団で移動しても
何ら怪しまれないですね。
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また討入る際大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたかと言うと、
念には念を入れた『奇襲作戦』を、最後になって敵に知らせるような
愚かな行為はしていないと言うのが見解だそうです。
また、この討入りは赤穂浪士が
自分たちが討入る30年もの昔に起こった仇討ち事件
『浄瑠璃坂の仇討』を参考にしたと言われています。
宇都宮藩を脱藩した奥平源八が
父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件。
藩の重臣、奥平内蔵允と奥平隼人が
前藩主の法要の席で口論となり、内蔵允が隼人に抜刀しました。
二人とも周囲の参列者に抑えられ、内蔵允は即日切腹。
藩の裁定は不公平であり、家禄没収の上追放された
内蔵允の嫡子源八は仇討ちを決意します。
その後源八に味方する者が次々と現れ、
一党は3年以上も潜伏します。
寛文12年2月3日、源八とその一党は
徒党を組んで火事装束に身を包み、
討入り後には幕府に出頭し裁きを委ねたなど
赤穂浪士たちがこの事件を参考に討入ったとされています。
源八とその一党は、幕府から寛大な沙汰を言い渡され、
遠島の後恩赦によって赦免された上、
彦根藩井伊家への仕官が叶っており、
赤穂浪士たちもひょっとしたら同様の沙汰を
期待してたのかもしれませんね。
幕末の新撰組の隊衣は、これら赤穂浪士の物を
参考にデザインしたそうです。
とにもかくにも、吉良さんが在宅で良かったね~![]()
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