◎南風原陸軍病院壕
第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立ニ中に兵舎を置いていました。病院長は広池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300余名の体制でした。
ところが1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。
ところが1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。
彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれます。
5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕跡」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
南風原町は沖縄戦の記憶を伝えるために、1990年に沖縄陸軍病院南風原壕群を文化財に指定し、2007年6月に一般公開にいたりました。第二次世界大戦の戦争遺跡を文化財に指定したのは、日本全国で初めてのことでした。
第二外科壕群20号壕の概要
当時、第二外科壕群の20号壕は貫通壕で、隣の19号壕・21号壕と連結していた。中央部で交差する壕内の十字路が手術場として使用されていた。壕の中は気管支をやられ喉からビユービユー音がもれる患者、手足を天井に吊るされた患者、下顎の無い患者、火焔放射機で全身に焼けどを負った患者など、直視できないほどの重症患者が収容されていた。ランプやロウソクのほの暗い灯りで、麻酔無しの手術が行なわれた。炎症を防ぐ為、手足を切断する患部切断がほとんどだった。
現在の出口(東口)へ向かって右側に幅90cmの2段の棚が入院患者のベッドに使われていた。東側の入り口が爆弾でふさがれ、ガスが充満したこともあった。壕内部は長さ約70m、高さが約1.8m、床幅1.8m。
現在の出口(東口)へ向かって右側に幅90cmの2段の棚が入院患者のベッドに使われていた。東側の入り口が爆弾でふさがれ、ガスが充満したこともあった。壕内部は長さ約70m、高さが約1.8m、床幅1.8m。
壁にはツルハシの跡があり、ほぼ90cmおきに立てられた坑木の一部が残っている。壁や天井、床の一部は黒く焼けこげており、病院の撤退後に米軍が火焔放射機で攻撃された跡だ。手術場の天井に患者が書いたと思われる文字も確認できます。
米軍は日本兵が潜んでいると思われるガマ(壕)を一つ一つ火炎放射器等でつぶしていった(画像右)
火炎放射器で焼かれたと思われる壕内部の壁面と、焼けた坑木(画像左)
第一外科壕群24号壕
本来の出入り口はもう少し前方だったようだが現在ではほとんど落盤。24号壕は元々未完成壕で、壕内はしずくが落ちぬかるんでいたという。ひめゆり学徒の待機場所となってからも、壕堀作業は続けられた。
本来の出入り口はもう少し前方だったようだが現在ではほとんど落盤。24号壕は元々未完成壕で、壕内はしずくが落ちぬかるんでいたという。ひめゆり学徒の待機場所となってからも、壕堀作業は続けられた。
患者が多くなる4月下旬から患者の病室に使用。30数メートル先に23号壕の跡が残っています。
公開後も24号壕は落盤のため説明のみになります。
米軍の艦砲射撃が始まった昭和20年3月下旬、陸軍病院は各壕へと移りました。
広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加え、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員されました。
4月1日に米軍上陸後、外傷患者は激増し、5月下旬第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出されました。
ここを陸軍病院として使用したのはわずか2か月余しかありませんでしたが、その間阿鼻叫喚が続く地獄絵のようなありさまだったそうです。
ここの見学コースはわずか数十メートル。内部保全のため照明器具はなく、真っ暗闇なのでヘルメットと懐中電灯を借り、係員の説明を聴きながら進みます。約20分程度で終了。
この後「南風原文化センター」へ向かいます。
◎南風原文化センター
南風原・沖縄に関する歴史資料や沖縄戦に関する展示、そして移民やむかしの暮らし等の展示があります。
南風原の沖縄戦は、沖縄陸軍病院南風原壕の再現、奉安殿、忠魂碑、学童疎開、移民と戦争、県内の戦争遺跡、南風原平和の礎等を中心に紹介しています。
壕では、体験寝台や手術台、壕の遺物、それに黄金森の壕の地形模型、壕関係年表等もあり、当時の様子がより理解しやすいように工夫されています。奉安殿や忠魂碑も模型で紹介しています。
壕では、体験寝台や手術台、壕の遺物、それに黄金森の壕の地形模型、壕関係年表等もあり、当時の様子がより理解しやすいように工夫されています。奉安殿や忠魂碑も模型で紹介しています。
特に実物の「穴の空いた砲弾の塀」は圧巻です。その他、砲弾に打ち抜かれ穴の空いた着物、焼けただれたガラス瓶、それにオリジナルの映像コーナーもあります。
訪れたのが平日の午後と言うこともあって、壕・文化センターともに他の見学者はなし。
ゆっくりと見て取れました。
特に壕の見学は、運転手さんや係員の人からも、
「ここへ来るのがこれで2度目。他府県の観光客の人などほとんど来ません。どこでここを知ったんですか?」
などと質問されっぱなし。
でもひめゆりを学ぼうとするならば、南風原は切っても切り離せないと思うのですが・・・。
これで今回の慰霊の旅はオシマイ。
今回同行してくださった職場の先輩と、いとこのリクエストにお応えして、この後『首里城』へ。