南三陸町防災対策庁舎は、1995年志津川町の町役場の行政庁舎の1つとして建設されました。
2005年の市町村合併により「南三陸町防災対策庁舎」となります。
3年前の東日本大震災で、15.5メートルの津波により骨組みを残し破壊されました。
防災対策庁舎では、防災無線で繰り返し非難を呼び掛けてはいましたが、まさかまさか庁舎屋上を2メートルも上回る津波が襲ってくるとは、想定外中の想定外だったに違いありません。
屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人。
防災無線の声の主は町職員遠藤未希さん(当時24歳)。
「6メートルの津波が予想されます」
「異常な潮の引き方です」
「逃げてください」
30分ほどの放送の後上司の指示て非難を開始したが、生存者の中に未希さんの姿はありませんでした。
総務課の加藤信男さんは屋上へ避難した後もシャッターを切り続けました。
現在は周囲のがれきも撤去され、虚しさとも取れる空間が広がっています。
夏の更地には雑草が生い茂ります。
その後、この被災庁舎は震災のモニュメントとして震災遺構の役割を果たし、庁舎近くの被災建物が次々と撤去される中、本庁舎は撤去されませんでした。
保存を求める強い声もあり、当初は保存する予定だったが、2013年9月26日に町長は、
「残すとなると、庁舎の存在が復興事業の支障になる」
「遺構の保存は、小さな町には荷の重すぎる問題」
など、保存費用が高額になることや遺族感情への配慮などを理由に解体を決定。
被災者の声には、
「一刻も早く取り壊して欲しい。観光客がピースサインする光景は耐え難い」
「震災を後世に伝えるものがまた姿を消すと思うと残念だ」
「解体すべきか残すべきかは正解がない。多くの遺族の考えや思いを聞いた上で町は判断して欲しい」
遺族や住民から「早期解体」「解体の一時延期」「保存」と3種類の陳情が出され、町議会は早期解体を求める陳情を採択していますが、2014年3月現在庁舎は解体されていません。
同様に、保存か解体か市民の声が分かれ保存が決定したことが過去にあります。
原爆ドームです。
戦後、焼け野原の広島は、復興に向かい順調に進んでいきました。
しかし、この原爆ドームは破壊された状態でしばらく残されたままだったそうです。
被爆から10年後の昭和30年頃には、建物が劣化し崩壊寸前に至ったが、保存工事には賛否両論がありました。
「原爆ドームを見るたびに原爆の瞬間を思い出すため撤去してほしい」
という市民の声でした。
そんなときに、1歳で被爆して白血病で亡くなった一人の女学生の日記が世論を動かしたんですね。
「二十世紀以後は、あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、
恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろうか?」
この日記により、「広島折鶴の会」の子供達が保存に向けた募金活動を行い、世に訴えた事により、被爆から21年に原爆ドームの永久保存が決定したんです。
それからは、残骸のまま風雨にさらされた痛みきった原爆ドームを補修し今の状態を、世に残しています。
もし、原爆ドームが被爆直後に取り壊されていたらどうだっただろう?
そう考えると、世界遺産である原爆ドームの意義は極めて大きいと言えます。
色んな人たちの想いの元に、当時の状態で保存された原爆ドームの無言のメッセージと、
南三陸町の防災対策庁舎が訴えかけているメッセージには、共通のものがあるのではないでしょうか。
国が震災遺構の保存に関する支援策を表明し、県もこれに続いているのですから、
どうか保存の方向に舵を切りなおしてほしい、そんな気がしてなりません。
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