『移動』と簡単に言ってしもたけど、看護に従事以来不眠不休でろくな食事も取れず、敵の砲撃を避けるため夜間の雨の中、泥にぬかるんだ道を負傷兵を抱え、重い医薬品を運び疲労困憊の状況だったと聞きます。
しかしひめゆり学徒隊が従事した壕は第三外科壕だけではなく、「ひめゆりの塔」から西へ数百m行ったところに「第一外科壕」の小さな小さな標識があり、その矢印に従い農道を進むと、「第一外科壕跡」があります。
この第一外科壕では6月17日に敵の至近弾が爆発し、学徒3名が死亡。
解散命令後重傷の9名が取り残される形となったそうです。
沖縄の壕(ガマ)の中は湿気が高く、とても蒸し暑いそうです。
そんな状況下で彼女たちは何を思い、何を考えていたのでしょうか・・・。
第三外科壕に隣接したところに「第二外科壕」があります。
南風原陸軍病院第二外科勤務者が避難しました。
第一外科壕・第二外科壕は、米軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出しましたが、その一部は第三外科壕へ避難し、米軍の攻撃を受けました。
他に避難した学徒たちの大半がその後の戦闘で死亡しています。
この壕の一部は戦後近くの道路を整備する時に壊され、遺品等は近くに埋められてしまったそうです。
ひめゆりの塔のすぐそばには、昭和高等女学校の生徒からなる「梯梧学徒隊」の碑が建立されていますが、ここもまた訪れる人はほとんどいません。
なぜにこうも違うのでしょうか?
第三外科壕は戦後まもなく、遺骨が収集され生き残った人たちが中心となっていち早く碑が建てられました。
また、ひめゆり学徒隊は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒のみならず、他の学校の女性とも含む総称として本や映画等で紹介されたこともあって、その中心的存在として“ひめゆりの塔”の名が先行していきました。
当時沖縄には21の男女中等学校があり、その全ての学徒が戦場に動員されました。
女子学徒は主に看護活動に、男子学徒は上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。
沖縄の全学徒のうち、2000余名が戦場で散ってゆきました。
「ずゐせんの塔」は、首里高等女学校看護隊33名、職員154名、他の生徒50名の計98名を祀ってあります。
ここもまた、ひめゆりの塔から東へわずか300mの距離。
沖縄本島最南端の岬である荒崎海岸には、『ひめゆり学徒隊散華の跡』として、石碑が刻まれています。
6月19日、第三外科壕で解散命令を受けた後、米軍の攻撃から逃げのびた「ひめゆり学徒隊」の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。
しかしここにはもう身を隠す場所などありません。
海上からは米艦隊が残存兵の捜索をし、陸上では壕と思しきところや茂みなど、すべてを火炎放射器で焼き尽くし、21日に6名の生徒が射殺され、万策尽きた引率教員が手榴弾を使って集団自決を図り8名が死亡したところです。
画像の右に突き出たところが『摩文仁の丘』。
右下の歌碑にはこう歌われています。
巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに
私はこれまでに広島・鹿児島県知覧・ひめゆりなど各地の戦争資料館(祈念館)を多く訪れてきましたが、ひめゆりの塔が代表されるように、そこを訪れる観光客の意識に“慰霊”“鎮魂”の意識が薄く、あくまで“観光地”として訪れているから、様々な遺品等を収集している資料館(祈念館)にしか目が向かないのでしょう。
館内にて子供たちがはしゃぎ駆け回っていても何も注意しない親たち。冗談を言い合いながら大声で笑う青年たち。
ある資料館での出来事ですが、韓国系の団体が訪問しておりその中のグループが遺影等を指さし、笑っていました。何がおかしいのだろう?と不思議に思うと、そばにいた初老の男性が今にもつかみかかるくらいに怒り出したんです。その人は韓国語が理解できたらしく、私が「どうかされたんですか?」と尋ねると、
「あの朝鮮人たち、帝国主義の手先となって死んだものをこのように祀ってるのは、日本人が我々の国にどのような苦痛を与えたかを未だ反省してない証拠だ!ここに祀られるのは、無理やり“特攻”に駆り出された我々の“同胞”のみ許されるのであって、(指をさした遺影に対して)こいつらは死んで当然の“畜生ども”だよ!!」
傍にいた添乗員(通訳)の係員が、
「彼らの尊い犠牲があって今日の平和があるのですから、不戦の誓いを込めてこのような施設を運営しています」
と説明したら、
「日本人はこんなものに金を出すくらいなら我が国に賠償金を支払え!」などとほざいたそうです。
その時あることを思い出しました。
今から30年以上も前のこと、昭和50年代のことです。
当時大学の同期と新宿で所用を済まし、小田急の駅ホームで到着する電車を待っていたところ、いきなり朝高7~8名の襲撃を受けました。こちらは3名。
まさにホームに進入しようとする電車が入ってきたにもかかわらず、私は線路に叩き落され必死になって這い上がろうとする私の顔に数発の蹴りが入ってきました。
当然電車は急ブレーキ
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その時運転手の慌てた顔が目に入ったんです。
間一髪で這い上がったところにまたまた数人による蹴り・蹴り・蹴り
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他の二人もフクロ状態です。
その時同じ大学の仲間たち10人ほどがその電車から降りてきて、加勢してくれました。
逃げ遅れた一人をとっ捕まえて、
「おのれら、なんでいっつもこないな汚い手使うんや
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限度っちゅうもんを知らんのか
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」
と問いただしたら、
「てめえら日本人が俺たちの国にどんなことしたのか知ってるのか!?お前ら日本人が地球からいなくなるまでとことんやってやるよ!!」とすごんできたので、
「ほな、おのれらの国に帰れや
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」
ゆうてそいつが気失うまでしばいてやった
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「チョンはいまでも我が国とわが国民を恨んでいるんやなぁ・・・」
とつくづく感じさせられた2例でした。
日本が気に入らんのやったらなんで母国に帰らんのやろ!?
なんで日本に観光に来るんやろ!?
やはり、戦争遺構とか資料館等はふざける場所ではなく、観光気分で訪れる場所でもありません。
仮に日本がかつて“侵略戦争”起こしたのだとしても、自らの命を犠牲にして献身的に働いた彼女たちに何の罪があるのでしょう。
あの戦争で失った多くの生命は、“英霊”なのか、“犠牲者”なのかは別にして、前途ある多くの命が失われたことに心より“哀悼”の意を込めて、このような地を訪問していただきたいと、切に願います。押忍!
いつも御訪問戴きありがとうございます
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