伊33は、開戦後竣工した期待の新鋭艦巡潜乙型でありながら、二度にわたる沈没事故を起こしています。
同型艦の伊15
巡潜乙型には零式小型水上偵察機1機が搭載されています。
伊19は同年9月、第二次ソロモン海戦終了後、珊瑚海で米空母「ワスプ」を撃沈しています。
一方、伊33潜には悲劇が起こります。
一度目は、1942年9月26日、トラックで工作艦に横付け中事故により沈没、33mの海底に着底し33名の犠牲者を出しています。
12月29日に引き上げ作業を完了。![イメージ 2]()
1943年3月2日にトラックを出航、呉に向かいます。
1944年6月13日に伊予灘で急速潜航訓練中に
機関室に浸水。60mの海底に着底。
給気筒頭部の弁に木片がはさまったまま潜航した
ためそこから海水が浸入し、沈没したそうです。
呉工廠での修理中に木片が給気筒内に落ち込んだまま、そのまま放置した作業員の人的ミスです。
2名生還、和田艦長以下102名は死亡。
1953年7月23日、引き揚げ作業完了。
内部を捜索すると、前部魚雷発射室に空気が残っており、そこで乗員13名の遺体が発見されました。
ハッチを解放した直後は、内部に充満した猛烈なガスで作業員等が倒れたりしたので、換気を行い中へ入ると
そこには腐敗することなく横たわっている乗務員の姿がありました。
浸水直後司令塔から脱出して生還したうちの一人も中に入り、
「おい、起きろ!総員起しだ、総員起しだ!」と、
戦友の肩を叩き続けたそうです。
いったいどのような思いで戦友を起こそうとしたのでしょうか・・・・。
それ以上に、前部魚雷発射室の13名は死が訪れるまでの間、何を思い何を見つめたのでしょか・・・・![]()

また、電動機室からは遺書などが収容されました。
彼らが9年もの時間、腐敗もせず当時のままで横たわっていた原因として考えられるのは、
60mもの海底に着底してたため、低温保存の状態だった。
乗務員が酸素を使い切ってたため、バクテリアの活動がなく腐敗が進行しなかった。
しかし、遺体を船上に救出するとあっという間に腐敗が進行したそうです。
艦はその後日立造船因島工場で解体されたが、その前に元海軍技術将校3名が調査のため中に入った直後に相次いで倒れ、そのまま息を引き取っています。
解体作業中も艦のあちこちから遺体が発見され、荼毘にふされています。
潜水艦乗りの間では、「3」またはその倍数などが不吉な数字として嫌われていたという。
伊33には艦名をはじめとして、「3」にまつわる日付等が絶えず付きまとい、悲運の軍艦の代名詞となった。
祖父も伊号潜の艦長だったので、引き上げ後のこの艦を因島まで見に行ったそうです。
多くを語らなかった祖父もまた、何を見、何を思ったのでしょう・・・・。
愛媛県松山市の高浜港から約12kmの海上に浮かぶ、興居島(ごごしま)御手洗地区に
『伊號第三拾三潜水艦慰霊碑』があります。
昭和拾九年六月拾参日 本艦は太平洋戦場に出撃の為め呉出港伊豫灘で 急速潜航運動中不慮の災禍に會ひ 由利島南方水深六拾壹米の海底に沈み 百余の英霊は艦と共に九年の長い間海底で悲しみの日を過されたが 呉市北星舩舶工業株式會社の犠牲的努力と地元有志の協力を得て 此地点沖で浮揚作業の効成り 慰霊の祭典を営み 多数遺家族の方々と無言の對面が出来たことを記念し 其霊を慰める為め此処に記念の碑を貽す
とあります。
碑の周囲はひっそりと静まり、訪れる人もほとんどなくたたずんでいます。