戦艦大和は、沖縄戦の真っただ中の1945年4月7日、九州南西沖辺りで米艦載機による激しい爆撃と魚雷攻撃を受け、3,000余名の乗組員と共に海の底に沈みました。
戦後、遺族の強い願いもあり遺族会による戦艦大和探索が行われました。
1982年にはソナーを使い大和らしき艦影を捉えていましたが、確証には至りませんでした。
1985年に行われた2回目の探索行の目的は、「海の墓標委員会」協力の下、大和の位置確認と潜水艇による大和そのものの目視確認、映像による記録調査、そして可能な範囲での遺品収集にありました。
1985年7月25日午前7時46分、北緯30度43.17分 東経128度04.00分、水深340 mの海底に戦艦大和らしき艦影を確認。その後、潜水艇調査で戦艦大和と確認!まさしく3年前に捉えた位置そのものでした。
この探索で、大和艦首部の菊の紋章や直径46cmの主砲弾、木甲板艦橋などを発見、更に一部乗組員の遺品を回収することができました。
艦首菊の御紋(上)と、46サンチ主砲弾(下)
下の画像は広島県呉市大和ミュージアムに展示してある、海底に散乱する大和の残骸の模型ですが、大和は艦橋が極めて高く沈没と同時に反転し、その時第二砲塔火薬庫付近で大爆発し、第一砲塔と第二砲塔の間で真っ二つに折れたようです。また、主砲は艦体の台座に上から載せてあるだけなので、反転の際に落下。
艦体後部の大穴は、ボイラー室での水蒸気爆発によるものだそうです。
そのまま沈下したようなので、艦体の重みで艦橋は押しつぶされたようです。
大和ミュージアムが中心となって、大和の一部を引き上げる運動が今も継続中で、寄付金も全国から数十億が寄せられたそうですが、現在のところ何の動きもありません。彼らをこのままそっとしておいて上げたいという意見と、少しでも遺骨・遺品を家族の手に渡したいと言う意見と二分しているそうで、結論は先送りされています。
菊の御紋の画像が
の画面に大きく映し出されてから、約30年の月日が流れました。

大和沈没地点の水深345m。
光も届かぬ冷たい海の底で、今も多くの乗組員とともに静かに眠っています。
やはり大和はそっとしておいた方がよいのでしょうか。
遺族の方々のお気持ちは痛いほどわかりますが・・・・。
天一号作戦の第1遊撃部隊で没したのは大和のほか、軽巡「矢矧」、駆逐艦「浜風」「朝霜」が撃沈され、
「霞」「磯風」は残存駆逐艦の手で処分された。
大和の戦死者2740名、生存者約270名。
第2水雷戦隊の戦死者合計、約1000名。
大和の探索だけ行われて、追随した「矢矧」「浜風」「朝霜」行われていません。
大和の知名度が高いから、大和だけ引き上げるというのもなにか引っかかるものがあると思うのですが・・・。
機関故障を起こし艦隊より落伍した「朝霜」は別としても、「矢矧」「浜風」は大和沈没地点より半径十数キロ圏内に沈んでいるのですから。
米軍機の空襲を受ける矢矧
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