鹿児島から沖縄へと続く海は、今もあの日と変わらずどこまでも広がっています。
70年前の悲劇など、何もなかったかのごとく・・・。
マリアナ諸島にまで押し寄せた米軍の反攻は、1944年7月サイパン島を陥落させ日本本土への爆撃を行う
B29のための基地を整備しつつありました。
日本本土への空襲の危機を感じた日本政府は沖縄県に対し、
『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせるべし』
との通達を出します。
マリアナの次には敵は沖縄に上がってくることは容易に推察され、沖縄への物資・兵員を輸送した帰路に住民を
載せ、疎開させることで軍の足手まといにならぬようにと計画を立てていました。
対馬丸はこれらの輸送任務に就く船の中の一隻でした。
8月、対馬丸を含む船団は本土からの増援を一度沖縄に降ろし、台湾でも兵員・物資を積み再び沖縄に向かいます。
20日夕刻、対馬丸は暁空丸・和浦丸とともに駆逐艦「蓮」・砲艦「宇治」に護衛され、鹿児島へ向けて出港します。
対馬丸には疎開児童767名、引率訓導・引率世話人28名を含む一般の疎開者他1661名を載せていました。
ちょうど台風が接近し、海は荒れていました。
駆逐艦「蓮」
砲艦「宇治」
対馬丸はもともと貨物船だったので、船内には大きな船倉へ階段を付けただけの改装のみで輸送任務に従事していたんです。
この構造がやがて大きな悲劇を生むとは、誰も予想できなかったのでしょう。
その頃米潜水艦「ボーフィン」は南西諸島方面で哨戒任務に就き、8月9日に二隻を撃沈していました。
22日早朝に対馬丸らの船団を発見し追尾します。
船団の対潜警戒が緩いと判断した艦長は、22時頃悪石島近海で浮上したまま艦首から魚雷6本を発射。
反転後さらに後部から2本を発射。
魚雷は対馬丸に4本、暁空丸に2本、蓮に1本命中し、対馬丸は魚雷命中から11分後の22時23分頃、
甲板で休んでいた児童、船倉にいたが暑さのあまり涼みに甲板に上がっていた児童、雷撃時にいち早く甲板に
駆け上がった児童は乗船した児童の中のごく少数で、残りは船とともに深い海に消えた。
対馬丸を沈めた米潜水艦「ボーフィン」
甲板に避難した児童にはさらに過酷な運命が待っていました。
輸送船だけに海面から甲板までが高く、怖くて飛び込めずに沈没の際に引きずり込まれた児童、
海に飛び込んだ者も台風接近で波が高く、救命胴衣が大人用だったので脱げ落ち溺れる者多数。
あろうことか、船団護衛の「蓮」「宇治」も「暁空丸」「和浦丸」も漂流者を置き去りにし、
全速力で同海域から逃げてしまったのです。
(過去に救助作業中に再び雷撃を受け沈められた船があったので、やむを得ない判断かもしれませんが)
犠牲者の多くは奄美大島・悪石島などに漂着。
沖縄からの疎開輸送は、沖縄戦が開始されるまで続き、約8万人の沖縄県民・関係者が本土や台湾に疎開しまし
た。
対馬丸の沈没は軍によって厳しい緘口令が引かれ、県民に公表されることなく沖縄戦が開始されます。
沖縄にこのことが知られるようになったのは、戦後5年以上経ってからです。
本土で関係者以外の人々が知るようになったのは、それよりさらに遅れ1962年になってからです。
沈没した「対馬丸」の船体が発見されたのは1997年12月。あれから53年の歳月が流れていました。
北緯29度31.93分、東経129度32.90分。水深870mの海底で確認された対馬丸の船名
幼い姿のままのあどけない顔や、助けを求め叫ぶ悲痛な顔が、この暗い海の底で悲しみを抱きながら静かに眠っています。
遺族は引き上げを強く要望しましたが、水深が深いのと、船体がもろく引き上げの際に分解する恐れがある
などの理由で引き上げを断念しています。
対馬丸の悲劇を顕彰するため、2004年8月22日に対馬丸記念館が開館しました。
数少ない生存者の証言や、遺影・遺品が収集され私たちに訴えかけています。
対馬丸記念会によると、これまでに判明した乗船者数は、船員らを含め1788人。
犠牲者の内訳は、学童780人、引率教員ら30人、一般疎開者630人、船員24人、船舶砲兵隊員21人の計1485人。
対馬丸を撃沈したボーフィンは、その後も日本の船舶に攻撃を加え、戦後は朝鮮戦争に参加。
1954年4月22日に退役。
1986年に“真珠湾攻撃の復讐者”として、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定。
真珠湾に係留し「サブマリンミュージアム」として一般公開されています。
ボーフィンが沈めた日本船の数を日章旗等で表示してあります
対馬丸を含むナモ103船団は、航行中ジャミング(妨害電波)を発信していたので、
ボーフィンの艦長はこの船団は何か重要な意味を持つ船団と判断。
しばらく追尾した後攻撃。
まさか疎開中の児童が載ってるとも知らず攻撃してるので、ボーフィンを責めることもできない。
もしもの児童たちが疎開をせず、沖縄に留まっていたら翌年の沖縄戦で同様に多くの犠牲を出したに違いない。
こんな児童たちにいったいどんな罪があって、このようなむごい出来事に遭遇せねばならなかったのでしょう。
この子らを含む多くの命が、あの戦争で失われずに助かったとしたら、どれだけの数の人間が我国に貢献できた
でしょう。
今年6月26日、天皇・皇后両陛下は沖縄に出向かれ、対馬丸記念館を訪問。
慰霊碑「小桜の塔」に花を手向けられました。
秋篠宮さまご一家は今月16日、東京・新宿の京王プラザホテルを訪れ、
「学童疎開船を語り継ぐつどい2014」にご出席なさいました。
「対馬丸殉難70年・鎮魂と平和への祈り」を見学なさる秋篠宮さまご一家
『集団的自衛権』に関心を示すことも大事やけど、
他人の弱みに付け込んだり、自分さえよければと言った風潮を是正しなければ、いつも日か再びアジアに戦乱を
招くかもしれません。
以前にも記事に載せましたが、
障害者に集団で“オヤジ狩り”するヤカラ。
順番待ちに並ぶのがイヤで、割り込もうと出口から入ろうとしたら、出ようとしてた人がじゃまで入れんかった
ので、「どかんかい、こら!」ゆうて相手に暴力を振るうアホな若造と、それを横からけしかけるアホな嫁はん。
また、その暴力行為を見てるだけで何もしない大勢の客と店員。
こんなんは氷山の一角で、非常識・マナーのなってない行為が世の中に蔓延しています。
世の中こんなんでええんでしょうか?
陛下はこのような人の心が荒廃した世の中をお望みではありません。
こんなアホがのさばってる社会をなんとかせんと、将来非常に危険です。
あの戦争で生きたくても生きることのできなかった人々が可哀想です。
「自分さえよければ」と考えてるようなヤカラは、拉致被害者と交換に北の強制収容所にでも入れてもらいましょ。
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