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Channel: 第弐章 「悠久の大義」
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1945年4月1日、米軍は沖縄本島読谷村に上陸し、ここから沖縄の地獄が始まってしもた!!巻

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あれから70年。

沖縄でどれだけの血が流れ、どれだけの涙を流したのでしょう。

沖縄戦は、厳密には1945年3月26日の慶良間諸島への上陸から始まり、

6月23日第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、南部摩文仁の軍司令部で自決し

日本軍の指揮系統が消滅した日までを指します。

(個々の戦闘はその後も続きますが)

沖縄戦を語るとなんぼあっても足りんから、ここでは米軍が読谷に上陸した時に限定し、

詳しい方もぎょ~さんおられるので、さらっと通りましょう。



米軍の戦法はいたって均一的。

まずは潜水艦等により兵站を遮断。

次に航空戦力にて空爆。

上陸前には戦艦を中心とする艦砲射撃にて地上兵力の駆逐。

そして上陸。

ペリリュー・サイパン・硫黄島等、南方各地で概ねこの戦略によって占領してきました。



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米軍が読谷に上がったのは本島の日本軍を南部・北部で分断すること。

それと、北飛行場・中飛行場の占領確保です。



米軍が撮影した北飛行場
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ここを欲したのは日本軍の航空戦力が脅威だったわけではなく、

早い話自分たちが一刻も早くここを使用して、

本島及び周辺海域の制空権を確保したかったからです。



一方第32軍の作戦要綱は、水際での敵に早期打撃を与える策ではなく、

栗林中将が硫黄島で唱えた、

「一日でも長く敵をくぎ付けにし、出血を強要」でした。

敵がここに上陸してくることは想定済みで、

日本軍はあえてここに主戦力を投入せず、宜野湾以南に配置していました。


4月1日朝、米軍は上陸を開始します。

この日の満潮は午前9時。

これに合わせたんですね。

なぜかと言うと、

沖縄の海岸はその大半が珊瑚礁に囲まれています。

揚陸艦が座礁しないように満潮を利用したわけです。




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このように、揚陸艦は接岸できずに20~30m手前に停泊しています。

第32軍はこの沖縄の海岸の特徴を知らなかったようです。

たとえ主力を持って攻撃せずとも、ある程度の砲撃を加えれば、敵にかなりの打撃を与えれたはず。

“天祐の好機”を逃したことは非常に残念です。


米軍はこの時の感想を、

「ズボンのすそを濡らさず、まるでピクニック気分」

「一発の銃声もしないのは、今日がエイプリルフールだからか?」

などと述べています。


この敵上陸部隊前面に配置してたのが、独立歩兵第12大隊。

通称『賀谷支隊』の約1000名。

この兵力で(砲兵支援はなく)、何十倍という敵に対し「遅滞戦闘」を実施。

4日間もよく持ちこたえたものです。



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南部の戦いでは軍民共に同じガマに避難したり、先に避難していた住民を軍が追い出すと言った

皇軍にあるまじき行為が多々あったそうだが、

このあたりの戦闘では、軍の配備数が少なかったこともあって、

住民が地区ごとに避難してるケースでありました。

しかし米軍が近づいてきた時、避難したガマで明暗が分かれたそうです。




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戦前沖縄から米国への移民が特に多く、戦争が始まるとそれら移民は

強制送還されるか、収容所送りとなりました。

読谷地区にはその強制送還された住民がおり、

彼らが米兵と接触し、非戦闘員しかいない旨を告げ難を逃れた場合と、

避難したガマで集団自決した場合も多くあったそうです。

米軍に保護(戦闘員ではないので捕虜には当たらない)された住民は、

北部や南部に避難した人々に比べれば相当ましだったようです。



沖縄の戦いはこのあと、両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地『嘉数』へと

移っていくのです。


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本土の陸海軍は、それぞれ『菊水作戦』『航空総攻撃』を実施。

10度に渡り海軍機は940機、陸軍機は887機で特攻攻撃を仕掛けるも、

故障で引き返す機も多く、

沖縄に近づくにつれ、レーダーで捕捉され大半が撃墜されてしまいました。

一番上の叔父は陸軍知覧基地から飛び立ち散華。

二番目の叔父は海軍鹿屋基地から『桜花』を抱いて出撃するも迎撃機に捕捉され、

桜花を投棄してどうにかこうにか帰還し、終戦を迎えたそうです。


叔父たちは、鹿屋基地の岡村司令から

「敵に遭遇したらとにかく逃げろ。桜花を捨ててでも逃げ帰ってこい!」

「貴様たちの任務は反復攻撃にある。敵に逐次痛撃を与えんがため、

決して死んではならん!これは命令である」

と言われたそうです。



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しかし叔父は、私がまだ中学生の頃法事の席で、

「あの時、石にかじりついてでも沖縄に行くべきだった」

とつぶやいたので、私は叔父にこう尋ねました。

「たとえおじさんたちが敵の艦を一隻沈めても、沖縄の戦いは何も変わらんかったんと違う?」

すると叔父は、

「確かに、もし一隻でも道連れにできたとしても体制に何ら影響はなかっただろう。

でも俺たちが一艦でも多く沈めていれば、もしかしたらその艦の攻撃で死んだであろう

沖縄の人を一人でも多く助けることができたかもしれない」

「沖縄の人達には大変申し訳のないことをしてしまった・・・」

そう言って涙を流していました。


叔父は戦後沖縄の悲惨な戦いを知り、今日まで自責の念を抱きながら生きてきたようです。



話が少しそれましたが、

米軍の沖縄上陸はスムーズに行われたけど、

ここからが米軍にとっても、日本軍にとっても、沖縄県民にとっても

地獄としか形容できない悲惨な戦いに突入していくのです。


あれから70年の歳月が流れたけど、沖縄戦で散った全ての人たちに

心から哀悼の意を捧げずにはおれません。






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