読谷村(よみたんそん)は沖縄本島中部の中頭郡に属する村。
この地は沖縄戦で米軍が本島に上陸した地であり、ここには日本軍が島人を総動員して作った北飛行場があり、米軍はこの飛行場をいち早く押さえたい目的もあって、この読谷に上がったのでしょう。
画像を見てわかるのは、上陸用舟艇が海岸まで到達せず、手前で横一列に並んで停止してること。
これは沖縄の海岸線にはリーフ(サンゴ礁の岩礁)があり、座礁の恐れがあること。
これにより米軍の上陸作戦は重火器等の揚陸が思うように進まず、ここに砲撃を加えればかなり被害が出たことでしょう。しかし第32軍は水際での攻撃を避け、本島奥地にて出血を強要する策をとったため、米軍の上陸初日の被害はほとんどありませんでした。
第32軍はこの沖縄の海岸を掌握してなかったようですね。
下画像は米軍上陸地の一つ、渡具知ビーチ。
海岸より数十メートル先に白波が立ってるのが見て取れます。
このあたりにリーフが広がってるんですね。
下画像は硫黄島での上陸風景。舟艇は海岸まで乗り上げています。
話を読谷飛行場跡に戻しましょう。
飛行場は日本軍の沖縄北飛行場として利用され、戦後は米軍が読谷飛行場として利用しました。
2006年には全面返還され、開発が進んでます。
滑走路の一部は現在その一部が道路として使用されています。
この道路のそばにある読谷村役場新庁舎の近くに「義烈空挺隊玉砕之地」と書かれた碑が立っています。
1945年5月24日18:50、奥山隊長以下義烈空挺隊120人が搭乗した12機が熊本健軍飛行場を離陸。
22:11飛行場突入の無電。
北飛行場に6機、中飛行場に2機着陸(4機は引き返す)」となっています。
実際は胴体着陸を試みた爆撃機のうち、最後に突入した一機が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸に成功。10名程の完全武装の空挺隊員が予定通りに航空機に対する破壊活動を行った。
本来の目的は、義烈空挺隊一時的に飛行場を使用不能とした気に、一気に航空攻撃をかけ、状況の打開を図る作戦だったが、当日の天候不良と作戦に成功したのがわずか1機だったため、作戦は決行されなかった。
米軍の資料によれば、着陸に成功した隊員の一人は翌25日13:00頃、残波岬で射殺されたとあります。
彼は何を思いここまでたどり着いたのでしょう。
また、奥山隊長以下あともう少しと言う所で撃墜された機の隊員たちの無念さに想いを馳せた時、この地を訪れただ合掌をしたい気持ちで満ち溢れてしまいます。
◎残波岬
東シナ海に面し、高さ30m程の断崖が約2kmにわたって続いている岬。
海の青に白い灯台がコントラストを成し、その情景が美しいことで知られている。
地上高31m・水面上44mのこの灯台から眺める海の景色は、まさに感動的。周辺では、亜熱帯沖縄を代表する海岸植生を見ることもできます。
また、フィッシングやダイビングスポットとしても人気が高いスポットですね。
ガイドブックに載ってない沖縄の戦跡を巡るには、最低3泊はいるようでなかなか実行は難しいなぁ・・・
読谷村へは、約50km。
だと90分程度かも。

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