玉砕:玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
国民に対し報道するにあたり、“全滅”を使用すると不安等をあおりかねないという報道統制から、
“玉砕”に置き換え、「潔く散った」「武人の誉れ」などの戦意高揚を図ろうとした施策の一環。
アッツ島の玉砕以降、太平洋戦線の各地において頻繁に使用されることとなる。
アッツ島の戦いは、1943年5月12日に米軍の上陸から、29日日本軍が山崎保代司令官を陣頭に最後の突撃後、玉砕するまで続いた。
アッツ島は、アメリカ領アリューシャン列島の一角で、ミッドウェイ作戦の陽動としてキスカ島と合わせて1942年6月に日本軍が占領していた。
1943年5月、空母を含む機動艦隊の支援のもと11,000名の上陸部隊を投入し、攻撃を開始した。
この機動部隊には護送空母「ナッソウ」のほか、あの真珠湾攻撃の際に損傷が軽微だった戦艦「ネヴァダ」(上)
「ペンシルバニア」(下)が含まれていました。
後に日本軍陣地・砲台はこの戦艦の艦砲によって粉砕されることになります。
兵力は日本側の2,650に対し、米軍の11,000。
各地で日本軍は米軍の攻撃を防いでいたが次第に制圧され、兵力は1,000名前後までに減少していた。
日本軍も一式陸攻で空爆を試みるが、視界不良のため米軍に損害はなく、陸攻はP38の餌食となった。
また海軍の潜水艦作戦も期待した戦果が上がらず、伊31を失う。
伊31潜水艦は、伊15型潜水艦の12番艦として建造された
アッツ島守備隊の奮闘をよそに、大本営はアッツ島放棄を決定。守備隊に玉砕命令を送っています。
5月29日、残存する1,000名の日本軍将兵は万歳を叫んで米軍陣地に突入。
壮烈なる戦死を遂げます。
日本軍の損害:戦死 2,351名 捕虜28名
米軍の損害 :戦死600名 戦傷者1,500名(大半が直接戦闘によるものではなく、凍傷による)
軍刀を持っているのが、守備隊司令官山崎保代大佐
彼らの犠牲が、この後米軍が進攻してくるキスカ島の撤退作戦を実施させたのかもしれませんね。