1942年6月、日本海軍はミッドウェー作戦の陽動とウェーク島以東へ哨戒圏を前進させるため、アリューシャン方面への攻撃を行った。
攻撃部隊は、第二機動部隊の空母「隼鷹」「龍驤」ほか、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻。
6月3日、龍驤攻撃隊がダッチハーバーを空襲するも効果不十分。(隼鷹攻撃隊は濃霧のため攻撃できず)
6月4日、ベテラン搭乗員をもって26機で出撃。地上施設を爆撃し相当の戦果を収めた。
この攻撃で、艦戦1機、艦爆4機が失われたのだが、攻撃の最中古賀忠義一飛曹が搭乗する零戦二一型が被弾し、ダッチハーバー東方のアクタン島に不時着。
緊急着陸場所として、アクタン島が指定されており、その際潜水艦による搭乗員の救出が行われる予定だった。
被弾した古賀機
機は横転し、古賀一飛曹は頭部を強打し死亡。
翌7月、PBYカタリナがその残骸を発見し、後日米軍の回収チームにより持ち帰られ、本国で修理・テスト飛行が実施された。
それまで真珠湾等で墜落した零戦からは、防弾装備が貧弱であることくらいしか分かっておらず、古賀機を手に入れたことにより零戦の弱点が露呈してしまうのであった。
敵地に着地した零戦はこれをすべて破壊すべしという命令を受けていたが、同島まで共に飛行した僚機はこれを破壊することなく帰投した。
後の研究により、この失態は「ミッドウェイの敗北」にも匹敵するそうだ。
やがてF6F「ヘルキャット」による零戦対策が実施され、零戦は太平洋各地で苦戦を強いるようになる。