1944年10月10日、この日米軍は南西諸島全域に大空襲を敢行しました。
本土へのB29の無差別爆撃と違い、米海軍機動部隊が行った大規模な空襲のことを言います。
正規空母 9・軽空母 8・戦艦 6・重巡洋艦 4・軽巡洋艦 10・駆逐艦 58・航空機 1081
からなる大艦隊です。
当時の沖縄は陸軍の第32軍が防衛態勢を構築中で、各地に陸海軍のレーダーサイト、
高射砲70門・高射機関砲50門余などが布陣していました。
しかし防空戦闘機は、陸軍第8飛行師団隷下の独立飛行第23中隊(三式戦闘機など12機)が本島の北飛行場にいるだけの、戦力と言うには余りに乏しい機数でした。
9日夜に沖縄近海に接近した米機動部隊は、10日未明に攻撃隊を発艦させ日本軍飛行場を襲いました。
制空権を確保するためですね。
次の目標は那覇港などに停泊中の艦船。
後半の空襲は市街地に向けられ、那覇は一面火の海と化した。
この日の攻撃は沖縄本島だけにとどまらず、慶良間・宮古島・石垣島など沖縄諸島全域に広がり、
また奄美群島にも及んでいます。
この空襲で受けた人的被害は
戦死 218・負傷 243、民間死者 330・負傷 455
家屋全損 11451戸
となっています。
このあと日本海軍はこの敵機動部隊の追撃に出、台湾沖航空戦が展開されることになります。
沖縄県民は、来年4月に本当の“地獄”を味わうことなど想像もできないでいた。