空母龍鳳は、1934年3月潜水母艦「大鯨」として竣工しました。
ロンドン海軍軍縮条約で日本の海軍力は大きく制限されたので、
大鯨は潜水母艦として建造されましたが、
有事にいつでも空母に換装できるような設計だったそうです。
潜水母艦
前線基地や泊地などで潜水艦に食料・燃料・魚雷などの物資の補給を行う艦艇。
潜水艦乗組員を乗艦させ休息させることも出来る。
1938年9月に第1潜水戦隊旗艦として艦隊に編入。
1941年12月の日米戦勃発に伴い空母への改装が行われました。
改装工事中のエピソードして、
1942年4月18日のドーリットル空襲の際に、
B-25爆撃機の投下した爆弾が命中しているんですね。
そのおかげで工期が少し遅れ、1942年11月30日に
「龍鳳」と改名し第3艦隊付属に編入されました。
その後は主に輸送任務に就き、
1944年6月のマリアナ沖海戦に参加。
米機動部隊攻撃に発艦した甲部隊の攻撃隊は
その大半が撃墜され、第二次として龍鳳から
攻撃隊が発艦したがこの攻撃は失敗に終わっています。
その上甲部隊の大鳳・翔鶴が沈み、
龍鳳が所属する乙部隊の飛鷹もまた沈みました。
ここで龍鳳・翔鶴・バンカーヒルをちょっとだけ比較してみましょう。
翔鶴74+3機:全長257.5m 速力34ノット 航続距離12251海里/18ノット
搭載機数:零戦18+6・九七艦攻6+1(+は予備機)
バンカーヒル:全長約265m 速力33ノット 航続距離20000海里/15ノット
搭載機数91+9機:艦戦36機、艦爆36機、艦攻18機
左から長門・龍鳳・飛鷹・隼鷹(昭和19年6月13~15日)
これまでミッドウェ海戦・餓島方面の作戦で
熟練搭乗員の多くを失い、
昭和19年ともなると、
飛行時間の少ない搭乗員を前線に
投入せざるをえない状況でした。
龍鳳のような軽空母は翔鶴に比べ約40mも甲板が短く、
発艦は出来ても着艦ができない搭乗員も多く、
彼らの技量では敵機動部隊を発見するのも困難と思われました。
マリアナ沖海戦が龍鳳にとって機動部隊として参加した最初で最後の戦いとなりました。
その後再び輸送任務に就き、
1945年3月19日・7月24・25日の呉軍港空襲で被弾。
湾内中央部下で大きく白煙を上げているのが龍鳳
すぐ左には戦艦伊勢・重巡大淀が、湾内右で白煙を上げている重巡利根が見えます
また呉軍港は機雷を投下されその機能を失い、
その後は空母天城・葛城・戦艦榛名・伊勢・日向等と共に、
防空砲台として呉軍港に係留されたまま終戦を迎えました。
戦後間もない頃と、解体中の龍鳳
空母として目立った作戦にほとんど従事せず、
その機能を存分に発揮できずに生涯を終えたのは
さぞ不本意だったでしょう。
いつも「たら・れば」の話になってしまいますが、
もしソロモン方面の作戦に参加しておれば、
同海域での損失を少しは抑えられたかもしれませんね。
その運用方法を少し考察すべきだったのでしょうか。