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Channel: 第弐章 「悠久の大義」
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沖縄戦に参加した叔父の名代として、沖縄に慰霊に行って来たゾ!の巻 其之弐

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那覇空港に到着したのが10時頃。気温は何と24℃
 
自宅出る時にゃぁ0℃やったから少し着込んできたから、あっつぅ~
 
 
 
 
那覇空港は、1933年「小禄海軍飛行場」として完成。
 
一時は民間航空が乗り入れしたが、1942年海軍が接収、「海軍小禄飛行場」となる。
 
 
沖縄攻略前の1945年1月2日、米軍が偵察した小禄飛行場と那覇
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戦後は米空軍、那覇航空隊の管理「那覇飛行場」となる
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1982年、飛行場の施設管理権が航空自衛隊に全面移管された後、現在では民間航空便の空港と航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊の航空機を主体する部隊や沖縄県警航空隊、海上保安庁航空基地が飛行場内に置かれています。
 
 
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◎航空自衛隊 那覇基地
 
那覇市の中心から南西約6㎞に位置し、南西防衛区域における唯一の航空基地として重要な役割を果たしています。基地の面積は約212万㎡であり、航空自衛隊の13個の部隊等のほか、陸上自衛隊第15ヘリコプター隊及び海上自衛隊第5航空群が混在する特色のある基地です。
また、飛行場地区は、国土交通省が管理する官民共用空港であり、長さが3000m、幅が45mの滑走路を1本有しています。那覇基地司令は、第83航空隊司令が兼務しており、基地施設の管理のほか警備、消防など各種の業務を行っています。
 
 
 
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基地内には沖縄戦当時の砲台跡があります。
昭和18年6月から10月の間に帝国海軍小禄飛行場が対潜水艦用基地として整備拡大されるに伴い、海軍の軍艦から取り外し、那覇基地に施工整備された15センチ水上砲台6基のうちの1基です。
昭和20年4月上旬、米軍上陸に際しこれらの砲台は、那覇西方海上の海域に出現した米海軍軽巡洋艦1隻を撃沈したと言われています。米軍の猛烈な砲爆撃によって、この1基の砲台を除き破壊されました。
 
 
 
 
 
をチャーターして最初に向かったのは、今回の目的地でもある『海軍司令部壕』。
 
 
イメージ 5戦局の悪化に伴い、戦線を後退させ再起を図るため沖縄が重要視され始め、小禄飛行場の防衛のための防空壕として建設されました。
 
1944年8月に海軍第226設営隊の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われ、約4か月で完成させたそうです。
 
沖縄戦においては、沖縄方面根拠地隊司令官大田実海軍中将が指揮を取られました。
 
5月半ば米軍は那覇市街地に迫り、首里の第三十二軍は本島南端部への撤退を決め、小禄司令部の海軍もこれに合流するため武器の一部を廃棄して移動を開始したが、5月末に小禄司令部壕へ引き返している。6月に入って米軍の攻撃が激化し、陸軍との合流が不可能となり、海軍は司令部壕付近に孤立。
 
6月4日早朝、米軍は小禄飛行場の北部に上陸。
11日朝、司令部壕に集中攻撃が加えられ、13日午前1時、大田司令官は自決。
 
小禄地区における組織的な戦闘は終結。
 
1953年壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集されました。
1958年には更に1500名以上の遺骨が収集され、これを機に海軍慰霊之塔が建立されました。
遺骨は現在、沖縄平和祈念公園内の国立沖縄戦没者墓苑に安置されています。
 
 
 

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ビジターセンター内資料館には、壕内で発見された戦争当時の遺品や戦争関連資料が展示されています。
 
 
 
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資料館を見学した後に壕内へと向かいます。
当時は450mあったとされる内の約300mが現在公開されています。
30mほど続く階段を下りると、医療室や暗号室などが当時のまま残されています。
 
 
 
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大田司令官は、自決する数日前に下記のような電文を打ちました。
この電文の内容は、この建物の前に有る慰霊碑の前に仁愛の碑として残されています。
現代分に訳して載せてみます。
 
 
 
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告すべきことですが、県にはすでに通信能力がなく、第32軍司令部も又通信できないため、私は県知事の依頼を受けたものではないのですが現状を見過ごすことができず、知事に代わって緊急にお知らせします。
 
沖縄本島が敵に攻略され始めて以来、陸海軍は防衛戦に専念せざるを得なくて、県民に関してはほとんど顧みるにことができませんでした。しかし、私が知る範囲に於いては、県民は青壮年の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身体一つで軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難したり砲爆撃下でさまよい、風雨にさらされながら乏しい生活に甘んじています。 
 しかも若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊への参加すら申し出る者さえいます。
敵が来れば老人子供は殺され、婦女子は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子生き別れになるのを覚悟で、娘を軍隊に預ける親もあります。 看護婦に至っては軍移動に際し、衛生兵が出発したため身寄り無い重傷者を助けて共にさまよい歩いています。
 
このような行動は真面目にして一時の感情に駆られたものとは思えません。
 さらに軍に於いて作戦の大転換で、自給自足で夜中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定されたため、輸送手段が無のことから、黙々として雨中を移動しています。
これは、要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫して勤労奉仕、物資節約を強要せられたにもかかわらず、ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きながら、遂にこの戦闘の最後を迎えてしまいました。 
沖縄の実情は言葉ではたとえようもありません。一本の木、一本の草さえも焦土と化しています。
食糧も6月一杯しかもたない状況だと言う事です。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことをお願いします。
 
 
 
今回の沖縄入りで、心のどこかにちぃとばがし期待していたことがひとつ。
今から30年以上昔、厚生省援護局(当時)の遺骨収集に参加し硫黄島に赴いた時、軍人の霊を何度か見たので、今回も少しは見えるかどうかってこと。
 
結果から申しますと、何も見えず、何も感じなかった
ここは噂では、沖縄の心霊スポットにあげられるくらい見た人が数多くおる場所の一つ。
そやのになんで何にも感じんかったんやろ・・・
叔父の想いは慰霊塔の前で心を込めてお伝えしたんやけどなぁ
 
 
 
 
 
 
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